左近山の施設・商店の変遷

左近山団地に暮らして2年目の筆者は、現在の左近山団地の姿しか知りません。昔は小学校が3つあったとか、商店街は賑やかだったとか、一方で人口減少・少子高齢化が進行しているとか、断片的な情報は聞いているものの、今からおよそ50年前に完成した左近山団地がどのような変化を経て、現在の姿になったのかを知りたくて、調査のテーマに選びました。
左近山団地がつくられた昭和40年代頃は、高度経済成長期の人口増・住宅需要に応えるべく、全国各地の都市近郊で、例えば山林野山であったような場所に、ゼロベースで人工的に緻密に計画された団地やニュータウンが相次いで開発されていました。左近山団地も全国の団地やニュータウンと同様に、開発当時は「完成された街」だったはずで、その後のおよそ50年の経過の中で、時代や社会の変化、周辺における宅地開発の進行によって、左近山団地自体や周辺のまちなみにどのような移り変わりがあったのか、主に過去の住宅地図を手がかりに、掲載された情報を収集し、「左近山団地周辺の移り変わり」と「左近山ショッピングセンターの変遷」の2つのテーマに分けて整理した。
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このページの内容は左近山オープンデータプロジェクト2021にて作成されました。担当:かっけ(instagram→@kakke13
 
目次
 

 

調査方法

情報元

住宅地図全般
横浜市立図書館に蔵書されている昭和30年代から最新号の住宅地図について、発行タイトルが、1962年から2021年までのものを数年おきに、左近山団地周辺が掲載されているページについて調査
※概ね、毎年度発行分について住宅地図の蔵書があるが、蔵書されている出版社は該当年により異なる(蔵書されている出版社は、経済地図社、刊広社、ゼンリン)
調査した最も古い年・・・「保土ヶ谷区明細地図 昭和37年度」経済地図社(1962.4)
調査した最も新しい年・・・「ゼンリン住宅地図 横浜市旭区2021.12」ゼンリン(2021.12)
「左近山連合自治会誕生50周年記念誌」左近山連合自治会誕生50周年記念実行委員会(2019.6.29)
「横浜市立左近山第二小学校創立十周年記念誌『わたしたちの左近山』」横浜市立左近山第二小学校(1980.11.5)

情報の分析・編集の方法

●左近山団地周辺の移り変わり
左近山団地1街区〜9街区(日本住宅公団による分譲・賃貸)、市沢団地(横浜市住宅供給公社による分譲)およびその周辺を調査エリアとして、住宅地図に記載された情報を収集しつつ、連合自治会および左近山第二小学校の各資料に記載があるものについては情報を補い、整理した。国土地理院ホームページで閲覧可能な空中写真3枚を背景に、「現存しないもの」(赤色)、「新設されたもの」(青色)をプロットし、住宅地図で確認できた年(住宅地図のタイトル年号)または開業日を記載した。
●左近山ショッピングセンターの変遷
現「左近山ショッピングセンター」の入居テナントについて、住宅地図で入居店舗名を調査し、1968年から2021年まで、店舗の入れ替えが多かった時期を中心にピックアップし、一覧表にした。
なお、上記2つのテーマともに、往年の住宅地図に記載された情報を、各住宅地図のタイトル年号で整理したものであるので、必ずしも正確な時期・事実ではない可能性に留意いただきたい。

施設の変遷

▲昭和40〜50年代に住宅地図で確認できた「現存しない」施設も少なくない
 
▲二期団地、左近山第三、ケアプラザは、既存施設跡地を転用した事例
 
▲2007年当時でも、現在は戸建住宅地に姿を変えた日産野球場が確認できる。
 

商店の変遷

▲現・左近山ショッピングセンターは、過去にいくつかの呼び名があった模様。
 
▲生鮮三品・飲食系の業種が充実。平成にはマクドナルドが出店していた。
 
▲団地開発当時からおよそ40年に渡り、店舗の顔ぶれが変わっていなかった。
 

【編集後記】

調べて分かった団地内の細かな変化

左近山団地自体の変化でいうと、左近山団地1〜9街区において住棟の建て替えは行われていないので、団地開発当時からまちの全体像には大きな変化はありませんでした。一方で、計画的に作られた「完成された街」である団地内において、細部を注視してみると、開発当時に供用されていた施設の一部については役目を終えて姿を消していて、別の施設用地に転用されていることが分かりました。加えて、団地開発当時から存在していたと思い込んでいた施設も、旧横浜銀行店舗棟(現在は空き家)や、左近山郵便局など、実は後追いで新設されているものもありました。どのような経緯で役目を終えて、用地転用がされたのか、あるいは、開発当時になぜ作られなかったのか、今回の調査ではその理由は分かりませんが、それらを紐解くことができれば、その時々の左近山団地で、どのような課題を認識していて、どう対応したのかを解明することができそうです。左近山団地の歴史を今後も積み重ねていく上で、事実や結果だけでなく、その理由や意図を伝承していくことにも価値があるのではないでしょうか。
 

団地周辺におけるロードサイド店舗の急増

左近山団地開発当時、左近山団地周辺で営業するスーパーやコンビニといった店舗は存在しておらず(例えば、日本初のコンビニは、1974年の東京都江東区に開業したセブンイレブンと言われており、コンビニ自体が世の中に無い時代)、日常の食料品の買いまわりは、左近山団地内に存在する2つの商店街である「左近山ショッピングセンター」「左近山ショッピングプラザ」が担っていたことが推察されます。ただし、2000年頃以降は、駐車場付きのロードサイド店舗(スーパー、コンビニ、ドラッグストア)の出店が相次いでおり、商店街から見れば競合店が生まれたことに加え、左近山団地が完成した当時と比較して格段にモータリゼーションが進み、日常生活においてクルマ前提のライフスタイルが浸透していることを物語っています。
 

昭和40年代の商店街、超充実の店舗

2つある商店街のうち、「左近山ショッピングセンター」の店舗変遷を詳しく調査しましたが、左近山団地開発当時、1968年の店舗の顔ぶれをみると、食料品、飲食店を中心に、日常生活に欠かせない実に多様なバリエーションの業態が出店したことに驚きました。
酒屋、八百屋、お肉屋、お魚屋、お寿司屋、金物屋、電気屋、お米屋、食堂、美容院、床屋、薬屋、菓子店、本屋、洋品店、クリーニング屋、スーパー(相鉄ローゼン)
 

店舗入れ替わりは2008年頃がピーク

いくつかの店舗では、テナントの入れ替わりがあったものの、昭和40年代から営業している店舗の大半が、2008年頃まで営業していたことは実に意外でした。2008年頃であれば、団地周辺へのスーパーやコンビニの出店も出揃っており、ネットショッピングも日常に浸透してきているような、現在と遜色ない買い物の選択肢が増えている時代。それまでにもバブル崩壊や、長い平成不況と、昭和の時代と比べて目まぐるしい社会環境の変化を乗り越えて、団地開発当時からおよそ40年も営業を続けてこられたということ。結果的に複数の店舗が2008年頃をピークに、多数閉店されているわけですが、理由として、店舗の経営状況如何にかかわらず、経営者の世代交代といったような別の要因があったのかもしれません。
商店街の業種構成も、その2008年以降が転機となっており、昭和40年代は、食料品・飲食や日常の暮らしに関わる商店が中心であったのが、ほっとさこんやま、アトリエや、接骨院、訪問看護ステーション、学童クラブ、公文教室といった、サービスを提供する店舗が増えています。
左近山団地が誕生した当時は、個人商店を中心とした生活圏に立地する商店街で日々の買い物の大半が完結する暮らしであったところ、現代においては、大手チェーン店舗や、実店舗に限らない様々な選択肢が圧倒的に増えて生活利便が向上しました。商店街の役割の前提が大きく変化してしまった昨今において、そうはいっても団地のなかの中心拠点で「顔」となる商店街の役割の担い方、利活用の術が、左近山団地にとってみても、重要なテーマではないでしょうか。
 

左近山団地の過去を後世に語りつぐきっかけに

細かく見ていくと、施設がなくなったり、できたり、跡地を利活用していたり、あるいは、商店街の店舗の変遷も知らないことばかり、およそ50年の時を経てたくさんの変化があることが確認できました。住んで2年目の私にとっては、意外な発見・驚きの連続でした。
50年もの歴史を重ねてきた団地だからこそ、過去のことを記録としてきちんと整理することはとても大切ではないでしょうか。左近山団地の50年の歴史を刻む「連合自治会50年史」は、非常に有益で存分に活用させて頂いたのですが、片や、収録されていない昔のことを調べることが実に難しいことを痛感しました。昔を知る人からすれば、既知の情報ばかりかもしれませんが、人の記憶に頼らない往年の左近山団地の変化を時系列で網羅している資料は存在していませんでした。調査した内容は「過去こうだったらしい」という事柄を簡略的に整理したもので、調査の足がかりに過ぎません。当時の意図や想いを知ることはできなかったので、昔の左近山を知る方々の思い出やエピソードとをリンクさせても面白いかもしれません。将来の左近山団地を展望する上でも、過去の変遷、データを蓄積することも有意義で、時間が経てば経つほど情報を集めることも難しくなるので、後世に、過去の歴史や出来事を伝えていくことの重要性を認識するきっかけになれば幸いです。